ここに愚者と賢者のふたりがいたと想定しよう。
愚者は、例えばここでオレンジを一つ買う。
それを食べて、その美味しさを味わう。
次の日も2個、3個、4個と買って、好きなだけ食べる。
そして、オレンジに飽きる。
もう美味しくない。
では、次はぶどうにしよう。
彼はぶどうを食べる。
飽きるまで食べる。
次はりんごだ。
りんごで同じことを繰り返す。
結果、バナナ、梨、柿…と彼はいつまでも繰り返す
ここで、賢者だったらどういう過程を辿るのかな。
賢者は、オレンジに飽きたとき「私はなぜ、オレンジに飽きたんだろう?」と考える
そして、「私は今ぶどうを食べようとしているけど、結局ぶどうにも飽きるんじゃないか」という考えに至るだろうね。
そして、ぶどうに挑戦するとき、「自分がぶどうを食べる時の心の変化を、客観的に見ていよう」と決心する
そして、ぶどうを食べていきながら、食べる量を増やしていきながら、心の変化を理解していく。
そうするとね、オレンジとぶどう、これくらいで『飽きる経験』は済んでしまうんだ
飽きる経験が済んでしまうから、次のりんごまでいかない。
いく必要がないんだ。
お金についても同じだよ。
もし予想も出来ない大金が手に入ったら、遠い親族の遺産が手に入ったら、宝くじが当たったら…悠々自適に暮らせるだろう、楽して暮らせるのだ
マンションを買おうか?高級な車?それとも好きな女性と結婚して豪華な家に?
次々に心が移ってしまうプロセス、これも全く同じだ。
オレンジやぶどうがね、車に変わっても同じ
例えばフィットに乗っていてね、
飽きてヴィッツにする。
次はアクアにしてみる。
これと、オレンジ、ぶどう、りんごのプロセスは全く同じだ
異性について考えても同じだよ。
A子さん、B子さん、C子さんと心が移っていくプロセス、これも全く同じだ。
だから、私達は、もしオレンジで心の動きを理解したならば、お金に対しても異性に対しても、惑わされることはないだろう。
その時、悟りが訪れます
急に、悟り、なんて言葉がでてきてびっくりしたかな?
オレンジや車と悟りが、なにやらつり合わないような気がするかもしれない
しかしだ、悟りとは心の動き、あるいは自我がどのようにして闇の中に入っていくかを、客観的に見て理解できる状態のことなんだ。
いいですか、これが悟りだ!
ブッダ
※この文章は宗教法人『幸福の科学』とは一切関係ありません。